『陰摩羅鬼の瑕』完読

ようやく読み終わった……。
(感想を一回書いたあとでページ戻って消してしまった! トホホ……)



陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)



以下ちょっとネタバレあり。



うーん、あまりどんでん返しのようなものは
無かったような。



前作の『塗仏の宴』の最後には
京極堂(本シリーズに於ける謎解き役)の
かつての上司がラスボスのように登場して、
ほとんどキャラクター小説になった感が有りましたけど、
今回にはぜんぜん関係無いのね……。



ところで、今作では故・ハイデガーさん(1889〜1976)
の哲学がモチーフとして少し使われていますが、
登場人物による解説では次のように説明されています。




謎解き役の京極堂さんのセリフ:

ハイデッガーは、まあ興味のない人にはどうでもよい事でしょうから至極しごく簡単にまとめるなら、アリストテレス形而上学けいじじょうがく的解釈から始まり、デカルト以降の近代的しいの壁を越えるべく研鑽を重ねた人で、初期の希臘ギリシャ思想の存在経験的傾向を進化させ、西洋哲学の根本的基調を対比的に−−」


(323ページ)

いくら小説内での主人公のセリフとは言え、
京極堂さんというキャラクターは博学な人物として描かれているので、
下手な事を言わせられません。
そういう意味で、こういう大胆なまとめ方を登場人物にさせる
小説家の京極夏彦さん(登場人物と名前が紛らわしい…)は
すごい人だなーと私は思います。


また、今作の主要な登場人物の一人、「伯爵」とあだ名される由良昴允こういんさんという人物が登場します。
彼はハイデガーさんと似た思想をもった(けどどこかずれてる)
人物として描かれます。
由良“伯爵”は、主人公(?)の小説家・関口さんと次のような会話をします。

(関口さんのセリフ)
「解りません。ぼ、僕は、ただ不安なだけです。世界の中に居るのが恐い。心細い。それだけなんです。だから逃避したいんです。……(中略)


「それは」


逃避ではないんですと、伯爵は云った。


「それが逃避でなくて何だと云うのです」


「それは貴方が本来的な在り方に自覚的なったと云うだけのことですよ。存在に自覚的ならざる存在者に不安はないんです。在るコトが本質的に場所的な関係の中にある限り、不安もまた、本質的に在るコト自体に付帯している筈なのです」



(18ページ)

関口さんは鬱病の小説家という設定(だったと思う)で、
私は個人的にはかなり好きなんですけど(笑)、
彼のキャラクターをハイデガー哲学にほとんど直接つなげてしまう
発想は、やはり京極夏彦さんの発想ってやっぱすげえと私は感心しました。



で、私は、この『陰摩羅鬼の瑕』という推理小説を楽しむために、
ちょっとハイデガーさんについての入門書などを読んでみたのですが、
確かに次の様な解説がありました。



ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)


第3部 ヨーロッパ哲学のあゆみ  3 ハイデガー より 



だから、人間とは無の深淵の上に宙吊りになっている存在である。このことの自覚が不安(Angst)にほかならない。それゆえ、不安は人間の本質に根ざす情態で、なにかの欠損情態なのではない。


(中略)


この不安の無の明るい夜のなかで、存在が開けてくる(『形而上学とはなにか』)。



(230ページ)

なるほど、ハイデガーさんの哲学では、
人間の不安や死(それも人間の本質的な条件として)
が出てくるようです。
(※ この『ヨーロッパ思想入門』では、別に死や不安が
 ハイデガー哲学の一番重要なポイントと書いてあるわけではない)




でも、次の説明はどうかな、と私は少し引っかかりました。
陰摩羅鬼の瑕』での京極堂さんのセリフで、
ハイデガーさんの一番有名な著書である『存在と時間』に触れて、


「その『存在と時間』と云う書物は、まあ様様な思想的な問題提起をしてくれる訳ですが−−平ッたくしてしまうと死と云うキーワードが浮かび上がってくるんですね」


(中略)


「死とは人間が常に引き受けなければいけない存在可能性である−−とハイデッガーは云う。人間と云うのは適当な意訳で、直訳風には現存在と訳すべきなのかな。その本の中では、死と直面する存在という在り方が、大変重要な鍵として登場するんです」


(324〜325ページ)

一番とまでは言わないまでも、人の死という点がクローズアップされています。



私は、さすがに一冊の入門書を読んだだけで哲学、
しかも良くも悪くも20世紀最大の影響力を持ったと言われる
哲学者であるハイデガーについて云々するのもどうかと思うので、
もう一冊、こんな本も私は参照してみました。
(ちなみにこの本は私には難しすぎてところどころつまみ食いしただけです……)



ハイデガー入門 (ちくま新書)

ハイデガー入門 (ちくま新書)



実存哲学として読まれるとすれば、『存在と時間』は「日常性という頽落たいらくからの実存の覚醒かくせい(本当の生き方への呼びかけ)」として読まれるだろう。あるいは第一次大戦後の不安の時代を表現する哲学とされる。しかしこのように捉えることは、『存在と時間』の根本的な問題設定を覆い隠し、さらに『存在と時間』への道とそれからの道、つまりハイデガーの思惟の道をまったく理解させないことになるだろう。


(8ページ)

本書の特徴はハイデガー哲学を存在への問いに定位して理解することにある。それは『存在と時間』を実存哲学としてでなく、プラトンアリストテレスの存在への問いを新たに立てる試みとして解釈することである。


(17ページ)

そしてもちろん『存在と時間』をどう読むかは各人の自由である。読んですぐわかるように見える問題こそが重要だと主張することも読者の勝手(趣味のレベル)である。環境世界の分析(道具分析)が好んで論じられ、不安、無、死などがすぐにテーマとなる。この場合、『存在と時間』は「大工職人の哲学」、あるいは「不安の哲学」「無の哲学」「死の哲学」などとなる。しかしこうした読む方は漢字を知らない子供の読み方である。子供は知らない漢字を読み飛ばし、平仮名だけを読む。本書は子供の知らない漢字を読めるようにしたいのである。それはハイデガーを自分の目で読む準備・訓練のためである。


(18ページ)

と書いてありました。
ハイデガー哲学、また『存在と時間』では、人の不安や死というテーマは、
論考の途中で出てくるプロセスの一部ではあるけれども、
一番重要なテーマではない、ということでしょうか。



ちなみに実存哲学もしくは実存主義というのを「広辞苑」でひいてみたところ、
人間の自由と責任を強調し、実存は孤独・不安・絶望につきまとわられている
と考えるのが一般的特色、とのころです。



だとすると、『陰摩羅鬼の瑕』では人の不安、特に死について
ハイデガー哲学がモチーフに使われていますが、
実際のハイデガー哲学とはちょっとずれてしまったように私は思いました。
それに、結局ハイデガー哲学は謎解きの部分ではほとんど絡まないし。
私は勝手に、ハイデガー批判までやってくれるのかなと
期待していたので、ちょっと肩透かしを食った感じです。



また他の本で読んだ記憶では、
存在と時間』は途中で終っている未完の本で、
人間についての分析で終ってしまっているそうです。
そして書かれずに終ってしまった後半部分では
存在一般についての考察が書かれる予定だったそうです。
多くの人が『存在と時間』を実存哲学として読んでしまうのは、
この未完性さが原因のことが多いらしいです。



それに、『陰摩羅鬼の瑕』の舞台は1953年なので、
(150ページに、23年前が昭和5年だというセリフがあります)
当時は丁度ハイデガーの『存在と時間』以外の本や研究書などが
日本にも入ってきた頃でしょうか。
さすがのスーパー古本屋の京極堂さんでも、
あまり目を通せなかったのかな。



とはいえ、私は結局『存在と時間』は読んでなくて
受け売りしただけなので、京極堂さんや
作者の京極夏彦さんの方が私より偉いことは確かです。



それにしても、『ハイデガー入門』での、『存在と時間』を実存哲学として
読んでる人への批判は、比喩とは言え「漢字を知らない子供だ」
なんて、そこまで言わんでも……と私は思ってしまいました。
まあ専門家にとっては、あまりにも誤解した本が世の中に
出回ってることに対して言わずにいられなかったのかもしれませんが……。
もうちょっとなんか言われた方も素直に受け止められるような
言い方ないもんかなー。